日本 沖縄辺野古移設問題: 前編

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出典:沖縄県 基地対策課メインページ http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/25185.html

 

橋本・モンデール会談(1996年4月)とSACOの最終報告(1996年12月)から20年以上が経過した。しかし、本日の日経(3月26日)を見ると「辺野古対抗策、時期探る――沖縄知事、承認撤回を明言」とある。筆者は日本の安全保障の最も大きな問題としてこの"普天間基地移設問題と混乱"を認識している。そして見方次第ではあるが、日韓の対立よりも更に大きなギャップが本土と沖縄の間にあるのではないかと感じている。そこで普天間の返還と辺野古への移設を巡る迷走を筆者なりに整理してみようと思う。

前編では、沖縄国際大学ヘリ墜落と2005年SACO最終合意の見直しまで扱う。

 

①沖縄米兵少女暴行事件(1995年4月)~SACO最終合意(1996年12月2日)

1995年9月4日、沖縄本島北部において、キャンプ・ハンセンに駐留する米海兵隊3名による少女暴行事件が発生した:「沖縄米兵少女暴行事件」。日米地位協定の規定が被疑者である米兵の捜査に支障をきたし、抗議活動が頻発・反基地運動と連動、10月21日には宜野湾市で、事件に抗議する県民総決起大会が行われ、主催者発表で8万5000人もの県民が参加した。日本国内の反基地・反米世論の高まりが異常なステージまで発展し、日米政府は何らかのアクションを起こす必要に迫られていた。

10月24日、河野外相とモンデール駐日大使は、新たな協議の場を設置することで合意→沖縄に関する特別行動委員会: SACO(Special Action Commitee on Okinawa)が設置された。日本側のメンバーは折田外務省北米局長、秋山防衛庁防衛局長、米国側のメンバーはジョセフ・ナイ国防次官補、ウィンストン・ロード国務次官補とされた。11月20日に開催された第1回のSACO会合では上記のメンバーに加え、モンデール駐日大使、河野外相、衛藤防衛庁長官が加わり、米軍基地の整理・統合・縮小及び訓練・騒音・安全問題について具体策が検討されることになった; 期限は1年間、結果は両国の閣僚に報告されることが確認された。

元来、普天間飛行場の返還は沖縄の最優先課題ではない; 1993年、沖縄県が決定した「重要三事案」に普天間は含まれず、SACOにおいても当初は議題にも上らなかったという。しかし、「どこからか」出自不明の返還の可能性がささやかれ始め、1996年2月の日米首脳会談: 橋本ークリントンでは米国側のアシストもあり、普天間基地が言及されるまでに至った。3月、主にSACOの作業部会等で調整され、普天間返還の方針が決定された。

1996年4月12日、日本経済新聞の予期せぬスクープもあり、橋本龍太郎首相とモンデール駐日は共同記者会見を行い、「普天間基地の5~7年以内の全面返還」を発表した。15日、SACO中間報告において内容を再確認、16日、日米両首脳は「日米安全保障共同宣言」を発表した。普天間基地を代替施設を探して返還するという日米合意が出来た。運用の都合上、当初から候補地は、1) 嘉手納飛行場、2) 嘉手納弾薬地区、3) キャンプ・ハンセン、4) キャンプ・シュワブ 等、沖縄に絞られている。しかし、それぞれ在日米軍の反対、環境問題、地元の反対により計画は頓挫している。

そこで考え出されたのが、海上ヘリポート基地案である。9月の日米首脳会談では、海上基地案を最有力として検討を続けていくことで一致、1996年12月2日に提出されたSACO最終合意では、

1. 嘉手納統合案、キャンプ・シュワブを選択肢として保持しつつも

2. 海上施設案が、上記2案より優れており最善の選択であると判断される

と明記された。普天間基地返還の枠組みの基礎が形作られた。

 

②移設先を巡る迷走の始まり(1997年1月)~「代替施設の基本計画」策定(2002年7月)

1) 海上施設建設ー名護市 & 沖縄県に齟齬

1997年1月、梶山官房長官は、日米間でキャンプ・シュワブ沖での海上施設建設について合意が出来ていることを明らかにした。4月から海上ヘリポート設置に関する事前調査が始まる。

沖縄県ー大田知事が海上施設案を拒否(→名護市市民投票53%の反対)→正式に受け入れ拒否を表明、本土移設が解決策と要望

名護市ー住民に一部受け入れの姿勢、しかし反対多数(→名護市市民投票53%の反対)→受け入れの表明と比嘉市長の辞任→受け入れ派の岸本市長の誕生

沖縄県名護市には"ギャップ"があった。合意は政府が沖縄県民の頭越しで決定したと非難された。

2) 「海上施設案」の見直し

1998年11月、小渕首相; 就任して3ヶ月、は海上施設案の見直しを表明した。沖縄県からの要望を考慮して、沿岸部の埋め立て案も含め、再度検討することとした。

海上基地建設には高度の技術が必要とされ、沖縄の土木建設業界に利益にならないのである。

首相ー小渕恵三沖縄県知事ー稲嶺恵一、名護市長ー岸本建男

東村、キャンプ・シュワブ(陸上)、キャンプ・シュワブ沖埋め立て、与勝沖合埋め立て、等々様々な移設候補地が浮かび上がったが、最終的に名護市沿岸部が有力とされ、沖縄県や地元経済界は辺野古を最有力候補であることを示唆した。

→1999年11月、稲嶺知事は①軍民両用空港、②15年使用期限という条件を要請しつつも、移設候補地を名護市辺野古崎沿岸域(キャンプ・シュワブ水域内)とすることを正式に表明した。名護市に受け入れを要請し、岸本市長は容認した

→1999年12月、「普天間飛行場の移設に係る政府方針」が閣議決定された。

具体的に代替施設問題について国と県が協議する場として「代替施設協議会」が設けられた。2000年①8月、②10月上旬、③10月下旬、④11月、2001年⑤1月、⑥3月、⑦6月、⑧12月を経て

→2002年7月29日、第9回協議会で「普天間飛行場代替施設の基本計画について」合意された。「代替施設の建設は、埋立工法で行うものとする」と明記された。

すでに橋本ーモンデール合意から6年が経過していた。

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出典:首相官邸 普天間飛行場代替施設に関する協議会ーー第9回代替施設協議会:代替施設基本計画主要事項に係る取扱い方針に基づく検討資料 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/dai9/9siryou1.pdf

 

③米軍再編と辺野古沖移設の見直しー振り出しに戻る

さて「環境影響評価(アセスメント)」を実施しましょう。しかし、この手続きを進める上で政府と沖縄県が対立した; 国と県どちらが事業主体となるのか。結局、1年以上揉めた後、国がアセスメントを行うことになった。さらに移設反対派による「海上座り込み」をはじめ様々な抗議運動によって、作業は中断・膠着状態を続けた。

首相ー小泉純一郎沖縄県知事ー稲嶺恵一、名護市長ー岸本建男

しびれを切らしたのはアメリカだ; 同時多発テロとそれに伴う米軍再編計画はもちろん在日米軍再編にも直結している。戦略レベルから普天間基地移設問題は再整理され、結果として「トータル・パッケージ」の一部として同問題は捉えられるようになっていた。それはつまり、普天間が動かなければ、再編自体の振興にも支障が出ることを意味した; 沖縄ーグアムーハワイ」という重層的な防衛線強化の上に普天間基地移設問題が乗った。

しかし、日本の国内問題に左右され計画は停滞。2004年2月、ローレス国防次官補代理等は日本に不満を表明し、具体的な打開策を求めた。日本側も危機感を強めていたと言われているが、辺野古沖移設が困難であることも認めざるを得ない状況となっていた。7月、日米審議官協議において、アメリカはSACO最終報告の見直しを申し入れる。同時点において既に日米の懸念はかなり高まっていた。

決定打を与えたのが、2004年7月13日に起こった沖縄国際大学米軍CH-53D大型ヘリ墜落事件である。沖縄では普天間基地の閉鎖を求めるムーブメントが起こる。

2005年に入り、政府は普天間基地移設について言及するようになった→3月28日、小泉首相はSACOの見直しを明言、同問題は振り出しに戻る。