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北朝鮮 六者協議: 前編

「ザ・ペニンシュラ・クエスチョン」

昨年、北朝鮮で核実験・ミサイル発射が相次ぎ、六者協議は失敗だったかもしれないという専門家の意見が数多く聞かれた。ここで六者協議の成否まで占うことはできないが、事実の確認と復習を行う事にも少なからず意義がある。前編では第三回六者会議までを扱う。

 

六者協議は第一回(2003年8月)~第六回第二セッション(2007年9月)に渡って行われた; 主に北朝鮮の非核化をテーマにした試みである。各国の首脳→アメリカはブッシュ、北朝鮮金正日、中国は胡錦濤、韓国は盧武鉉、日本は小泉純一郎安倍晋三、ロシアはプーチンである。中国が議長を務め、王毅(第三回まで)→武大偉(第四回以降)が担当した。

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写真は、第四回六者協議ー共同声明採択時

出典:人民網 http://en.people.cn/200509/20/eng20050920_209546.html

 

第一回六者協議(2003年8月27~29日)

第二回六者協議(2004年2月25~28日)

第三回六者協議(2004年6月23~26日)

第四回六者協議

 一次セッション(2005年7月26~8月7日)、二次セッション(2005年9月13~19日)

第五回六者協議

 一次セッション(2005年11月9~11日)、二次セッション(2006年12月18~22日)、三次セッション(2007年2月8~13日)

第六回六者協議

 一次セッション(2007年3月19~22日)、二次セッション(2007年9月27~30日)

 

①六者協議始動まで

北朝鮮の第一次核危機は1994年の米朝枠組み合意によって収束に向かい、KEDOが設立された。しかし、北朝鮮の一連の挑発事態(1998~99年)、ブッシュ政権の「北朝鮮政策の包括的見直し」(2001年)は枠組み合意に対する解釈の齟齬を生みだし; 終いにはアメリカのインテリジェンス情報源が、そして公式には2002年10月3日、姜錫柱外務次官が高濃縮ウランの存在を示唆し(※翌日、金桂寛が発言を訂正→北朝鮮外務省も否定)、案の定、アメリカがご立腹。

米朝枠組み合意の基盤は完全に崩壊した。

アメリカは重油供給を停止⇔北朝鮮は核施設の再稼働を宣言・IAEAの査察官を追放→2003年1月10日、北朝鮮はNPT脱退を宣言

第二次核危機が勃発した。

1) 北朝鮮と国際情勢

北朝鮮は1990~98年まで9年連続マイナス成長: 大規模の飢餓=「苦難の行軍」、エネルギー難、外貨の不足、労働生産性の低迷、技術水準。国家崩壊の危機が叫ばれ、国際社会からの支援を必要としていた。

情勢の変化は韓国から; 金大中政権が発足し「包容政策」を打ち出す: 鄭周永と牛。中朝関係にも改善の兆しが見られ、金永南が中国を訪問、2000年5月、金正日総書記の訪中が実現した。翌月、南北首脳会談が成就し、6・15南北共同宣言が締結された。ミスターXと田中均アジア太洋州局長の秘密交渉は2002年9月の日朝首脳会談と平壌宣言という成果を残した。北朝鮮の対外政策は開放的となり、周辺諸国との緊張緩和が実現した。

2001年9月11日の悲劇はアメリカを変えた。アフガニスタンイラク、中東政策に重きを置かざるを得なくなった。悪の枢軸呼ばわりした北朝鮮ではあるが、情勢は有事をより避けるべき選択肢と変化させた。

問題は米朝の話し合いをバイで行うかマルチで行うかという主張の食い違いだった; 北朝鮮は2国間を望み、アメリカは多者を条件とした。

2)米中朝三者協議(2003年4月23~25日)

ABC(Anything but Clinton); ブッシュ政権クリントン時代に米朝枠組み合意に纏わる不愉快な経験から、北との直接対話を痛み嫌っていた。一方で北朝鮮は、核に関する交渉を米朝間の問題とみなし直接対話にこだわっていた。結果、妥協策として行われたのが、米中朝三者協議である。

アメリカの主張: CVID(Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)=完全で検証可能かつ不可逆的な核廃棄

北朝鮮の主張: 国交正常化、経済支援、米朝不可侵条約の締結

成果は元から期待されていなかったと言える。李根外務省米州副局長は核保有宣言と核移転発言によってアメリカを"脅そう"とした。このような北朝鮮の行動(協議前の挑発行動・協議中の脅迫めいた発言; 一般に瀬戸際政策と呼ばれる)はもはや様式美とも言える。

 

②第一回・第二回六者協議(2003年8月27~29日・2004年2月25~28日)

六者協議が始動に成功した要因はアメリカの覚悟と中国の説得にある。中国はアメリカが中東で見せた圧倒的軍事力に脅威を感じており、中国の関与という要請という名の圧力が北朝鮮の参加説得というインセンティブを生み出していた。ブッシュ大統領は小泉・盧を排除した三者協議を苦々しく思っており、政権中枢も次は多国間(5、6 or 10ヵ国)であると理解していた。多国間協議に向けたせめぎ合いは2003年7月31日、米朝が接触→六者協議を開催することで決着を見た。

首席代表一覧

中国:王毅外務次官(議長)

アメリカ:ジェームズ・ケリー国務次官補

北朝鮮金永日外務次官→金桂寛外務次官

日本:薮中三十二外務省アジア太洋州局長

韓国:李秀赫外交通商部次官補

ロシア:アレクサンドル・ロシュコフ外務次官

第一回・第二回六者会議の特徴; 六者協議を彩る様々な"構図"が共有された

六者協議は過去に例がないアジアにおける多国間協議であり、進行手順から全てにおいて先が読めない交渉だった。その中で各国、米朝対立の構図を確認し、様々なアクターと影響力について理解した。

米朝の対立の構図

1) 同時(simultaneous)or 順序立てて(step by step, sequential)

北朝鮮は核の「凍結」とそれに見合う「補償」の同時決着方式を主張; アメリカは核の「廃棄」とその後の問題討議及び「補償」の核廃棄先行論を主張した。

2) HEU(高濃縮ウラン保有、核の平和利用

 アメリカはHEUの存在していると判断・核の完全廃棄を主張、北朝鮮はHEUの存在を否定・核の平和利用の権利を主張。

米国内における関与派と強硬派

1) 国務省(パウエル・アーミテージ)と国防総省(チェイニー・ラムズフェルド

2) 地域屋(グリーン・モアリティー)と不拡散屋(ボルトン・ジョセフ)

前者は「枠組み合意」の修正、六者協議の継続、妥協と共同声明を重視する一方、後者は「枠組み合意」の破棄、六者協議の中止、固執と妥協拒否を主張した。

第一回・第二回六者協議では、アメリカ・北朝鮮共に原則論を繰り返し、目立つ成果を得ることが出来なかった。主に以下の内容確認されている; 第一回、第二回共に共同文書の策定は見送られ、議長総括という形で口頭発表された。

核兵器のない朝鮮半島と言う目標

・状況を悪化させる行動をとらないこと

・協議の継続と問題解決へのコミットメント

 

② 第三回六者協議ー少しばかりの進展(2004年6月23~26日)

パキスタン政府とA・Q・カーンの証言が第二回六者協議後に行われた作業部会を紛糾させた。アメリカはHEUに対する主張の裏付けが為されたとして、北朝鮮にHEUの存在を認めるよう迫ったが、北朝鮮代表団は激しく反発した。一方で、米朝除く四ヵ国は程度に違いはあれど、HEUの存在に疑問を呈し、特に中露は、アメリカ側から十分な証拠が提示されていないとして、アメリカに同主張を取り下げるべきだと意見した。日本は米国にべったりであったが、韓国は同問題に対して「あいまいな姿勢」をとり続けた。問題は原則論を堅持することがもたらす悲観的観測であり、関係国はアメリカに柔軟な対応を求めるよう再三にわたり示唆したとされる。

第三回六者協議はブッシュ政権が憂慮に多少の配慮と軟化の姿勢が見られたことから開催が決定されたという背景があった; 放棄の前段階としての「凍結」に一定の理解を示し、CVIDへの言及を控え表現を和らげた。約半年後に大統領選が控えており、北朝鮮問題が失点となることを避けたかった。同会合では、北朝鮮案と米国案が提示され「核放棄の範囲と方法」(特に補償措置が先か、核放棄が先かという問題)「核凍結の範囲とそれ相応の措置」(ウラン計画・核の平和利用が含まれるのか否かと言う問題)について議論された。評価としては、少しばかりの進展ー閉塞感が打破され、実質的な協議と歩み寄りが見られた一方、重大な部分での意見の相違; つまり上記で議論された2つの主要な困難が依存として露呈していた。成果は初めて議長声明という形で残された。