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日本・韓国 慰安婦問題: 前編

日本 大韓民国

今日は三一節。韓国では新年度がスタートします。

そして、今日の水曜集会は大規模デモになるようで、一部では1000人が集まると報道されていた。慰安婦問題が相変わらず日韓関係をくすぶっている; 長嶺駐韓大使が一時帰国してから1ヶ月半、帰任する雰囲気にない。

今後、朴槿恵大統領の罷免可否が争点になり、慰安婦像の移転問題が進展するとは考えにくいため、一時帰国が更に長引く可能性も高まってきた。

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今回は慰安婦問題について所感を述べたい。以下、①慰安婦問題をめぐるこれまでの経過(前編)②12・28合意とその後(後編)、に分けて考える。はじめに、慰安婦問題を深く議論するに当たって、過去の経緯を理解することが一層求められていると思う; なぜなら90年代慰安婦問題が過熱した時のことを知らない世代が増えており、議論が感情的になりがちでもあるからだ。次に、12・28合意後の動きにも目を通す; 当然のことながら現在の大使一時帰国長期化という異常事態に直結しているからである。

 

慰安婦問題をめぐるこれまでの経過

先行研究として、千田夏光、金一勉の著作他があるが、慰安婦それ自体が日韓の懸念問題として姿を現したのは、1990年1月、尹貞玉教授がハンギョレ新聞に「挺身隊の足跡」の連載を始めてからだ。11月には韓国挺身隊問題対策協議会が設立された。大きく事態が動いたのは1991年8月14日、金学順が記者会見を行い、実名を名乗り、いわゆるカミングアウトを行った。12月6日、元慰安婦3名によって東京地裁への提訴がなされ、同日会見で質問を受けた加藤紘一官房長官は「政府関係機関が関与したという資料はなかなか見つかっておらず」という答弁をした。それに対して韓国政府は真相究明を要求し、12日、日本政府が関係省庁に慰安婦問題の資料調査を命じることになる。翌年1月には宮澤喜一首相の訪韓を控えており、早急な対処が必要とされていた。

一般に、首脳会談では何かしらの成果を挙げる必要がある。しかし、慰安婦問題に対しては準備期間が1ヶ月しかなく、事務レベルにおける折衝が不足していたことが想像される。また、朝日新聞が1月11日「朝鮮人従軍慰安婦への軍関係資料発見」という表題で、吉見義明教授が日本軍の関与を示すとされる資料を提示したことが、「関与した資料がない」とした日本政府の見解を覆した。後に、秦郁彦は首脳会談の5日前に起こった同報道を、「朝日新聞の奇襲」と呼んでいる。公式見解の修正を余儀なくされた日本政府の対応は1月13日、加藤官房長官の談話へと繋がった。ちなみに水曜デモの第1回が1月8日に行われている。

1992年1月16日~17日の宮澤訪韓は「謝罪外交」であったと言えよう。首脳会談の争点は韓国の対日貿易赤字であったが、日本政府に譲歩の意思がなかったため、盧泰愚としては、慰安婦問題を追及しなければならなかったという側面もあった。盧泰愚政権がレームダック化しており、三金時代の真っ最中、特に民主自由党内における勢力争いも影響したとされている。一方、日本政府はここまで大事になると予想していなかった。それは石原信雄副官房長官が「ざっくりと」謝ってしまえば済むと認識していたことからも伺える。しかし、この平謝りが韓国側の反発を生む一因ともなった; なぜなら、繰り返しのお詫びの表明と同時に補償の意思を示さなかったからだ。挺隊協は誠意のある謝罪&法的賠償→名誉回復を求めており、宮澤内閣の対応は彼らの水準を全く満たしていなかった。日本政府は「1965年条約で解決済み」であると言い、韓国政府は「請求権協定には該当しない、慰安婦は例外」と述べる、同構造は92年1月に形作られた。

ただし、韓国政府が常時、日本政府に法的責任を認めた上での賠償を求めていた訳ではない。例えば、金泳三大統領は、強制連行したという事実認定のみでOKだという姿勢を示していた。そして河野談話では狭義/広義という議論はあるにせよ、軍の関与を認めることなった。実際、韓国政府は同談話を「日本政府の努力を評価し、受け入れる」「わが政府の立場に相当な水準まで反映したもの」であると評価しているし、「今後、慰安婦問題を両国間の外交懸案として提起しない」とまで述べている。しかし、韓国の関係団体は談話に批判的であり、外交問題としては解決したように見えた慰安婦問題は、直後に成立した細川内閣以後もくすぶり続けることになる。また、同タイミングで成立した内閣が55年体制終結を告げる非自民内閣であり、運動体に期待を抱かせた→要求水準を高めたことも深刻なズレが生じる要因となった。

村山富市政権は、歴代日本においても最も歴史認識問題の解決に前向きに取り組んだ内閣であったと言える。戦後50年という節目に行った村山談話で有名であるが、「お詫びと反省の気持ち」を具体化→アジア女性基金の発足にも貢献した。また、同時期の傾向として抑えなければならないポイントが2点ある。第一に、保守の反発; 戦後50周年の国会決議に反対した。第二に、慰安婦問題の国際化; 1996年1月のクワラスワミ報告、1998年6月のマクドゥーガル報告は日本の対応を非難した。

村山内閣: 自社さ連立政権では、いわゆる「妄言」も相次いだ。多くは自民党から為されており、橋本龍太郎渡辺美智雄侵略戦争韓国併合に関わる発言で村山内閣の足を引っ張った。究極的には、村山自身が「日韓併合条約は法的に有効に締結された」と発言し、韓国政府: 金泳三大統領を怒らさせた。金泳三は94年10月時点において、補償を求めないという姿勢を堅持していた; アジア女性基金の事業に対しては困惑していたと言われているが、それでも善意で行う分には問題がないという立場だった。しかし、相次ぐ妄言は、金泳三政権の態度を硬化させ、アジア女性基金を認めないという認識に至るようになった。アジア女性基金が"失敗"した大きな理由の1つである。

アジア女性基金は被害者個人に償い金200万、医療福祉支援として300万、合計500万円が支給される事業であった。国々によってそれらの支給方法は異なるが、韓国の被害者の方々には、最終的に500万円が個人に支払われている。しかし、実施は60(+1)人にとどまり、登録被害者の1/3程度だったと報告されている(総数は1993年: 162人→現在239人)。

なぜアジア女性基金が失敗に終わったのか。熊谷奈緒子(2014)は以下4つの理由を挙げる。

①広報の仕方、②話題先行と調査不足、③募金の仕方、④活動の仕方。

当事者として関わった和田春樹(2016)は以下のように述べる。

「国民募金で「償い金」を支払うという基本コンセプトに問題があった、これが「政府の責任回避をあらわすとして」、被害者と運動団体に受け入れられなかった」。

象徴的な出来事は 1) ハッキリ会の臼杵敬子さんに韓国入国禁止措置が取られたこと; 本来は慰安婦に寄り添う立場の方だ、2) 金大中政権において、対抗措置さながら被害者補償が行われ、しかもアジア女性基金を受け取らないと誓約したハルモ二が対象とされたこと; アジア女性基金の意義を消失させる試みであった。

基本的な構図は金泳三・金大中政権期以降、変わらない1998年、小渕ー金大中間で交わされた「日韓共同宣言―21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」では慰安婦問題が巧みに回避された印象を受ける。2005年、盧武鉉政権は、「慰安婦、サハリンの同胞問題、原爆被害者の問題は請求権協定の対象ではなかったため、日本政府に法的責任がある」と韓国政府の立場を改めて明確にしたが、大筋として金泳三ー村山政権期以降、道徳的責任において慰安婦問題を解決することはできないという韓国側の主張に変化はないと言えるだろう。

2011年8月、韓国の憲法裁判所は、「韓国政府が日本政府に対して日韓請求権協定に基づいた解決を図る具体的な努力を怠っていること」に対して憲法違反であるという判決を下した。時の李明博政権は野田首相に対して、慰安婦問題に関し強く出ることが求められ、12月の日韓首脳会談では野田ー李明博、両者が正面衝突した。李明博大統領は野田首相に"決断"を促したが、野田首相は反論とばかりに慰安婦像の撤去を求め、交渉は決裂した。翌年、李明博大統領は竹島/独島に上陸し、天皇に関する発言もあって、日韓関係は悪化した。

2012年末、第二次安倍内閣が発足した; しかし、河野談話の見直しを含め歴史修正主義的見解を当初維持したため、日韓関係は低空飛行。2013年、朴槿恵大統領が慰安婦問題の進展を首脳会談の前提に置いたこともあり、過去最低とも言われる日韓関係に陥った。象徴的だったのは天安門城楼の上に並ぶ、朴槿恵習近平プーチンの写真。2015年は日韓国交回復50周年という記念の年であったのだが、関係修復の様相もなく、関係者の方々は大変な1年を過ごしたに違いない。それ故、急転直下の12・28合意は驚きであった。